プロモーションを読み込み中...
雨の中、もう君とは歩けない
別れてから三年目、元嫁の篠宮栞(しのみや しおり)が子どもの手を引いて、俺の働いてる店に服を買いにやってきた。 俺は一瞬固まったが、いつもと変わらず丁寧に接客した。 距離感も言葉遣いもマニュアル通り。昔のことにはひと言も触れなかった。 栞はしばらく黙っていたが、ふと変形した俺の指をそっと握った。 「ここ、まだ痛む?」 俺は静かに袖口を引き、指先を隠して、もうなんともないと答えた。 その会話は俺たちの間には何ひとつ変わったことなどないみたいだった。 ただもう愛し合っていない、それだけだ。
チャプター (1)
第1章
別れてから三年目、元嫁の篠宮栞(しのみや しおり)が子どもの手を引いて、俺の働いてる店に服を買いにやってきた。
俺は一瞬固まったが、いつもと変わらず丁寧に接客した。
距離感も言葉遣いもマニュアル通り。昔のことにはひと言も触れなかった。
栞はしばらく黙っていたが、ふと変形した俺の指をそっと握った。
「ここ、まだ痛む?」
俺は静かに袖口を引き、指先を隠して、もうなんともないと答えた。
その会話は俺たちの間には何ひとつ変わったことなどないみたいだった。
ただもう愛し合っていない、それだけだ。
第1章
もうなんともないだなんて、本当はそんなことはなかった。
俺は目を伏せ、変形した指の骨を見つめた。雨の日になると、一晩中眠れないほど痛む。
昔の俺なら、わざと大袈裟に言って、栞を心配させていたし、怪我を口実に甘えて、栞にキスをねだったりもした。
けれど、今はもうそんなことはしない。
人間、いつまでも相手にすがりついて、惨めな真似を続けられるわけじゃない。
栞は下唇を噛み、そっとため息をついた。
「圭吾、嘘はよくないよ。昔のあなた、すごく痛がりだったでしょ」
俺は眉を伏せ、感情を押し隠した。
「わかってるだろ。もう昔の話だ」
栞は困ったような顔をして、昔みたいに俺の手を取ろうとした。
「悪い人!ママ、その人に触っちゃダメ!帰ったらパパに言いつけるから!」
篠宮悠愛(しのみや ゆあ)が飛び込んできて、俺を突き飛ばした。そのまま力いっぱい、俺の太ももに噛みつく。痛みで足が痺れる。
「あっち行け!お前のせいだ!お前さえいなかったら、ママはパパに怒ったりしなかったんだ!パパはお前なんか大嫌いだ!ママを誘惑するな!
こいつの服なんか買っちゃダメ!汚いし臭い!こんなやつ、飢え死にすればいいんだ!」
悠愛はテーブルの上のハサミを掴むと、もう一度俺に向かって突っ込んできた。
「悠愛!やめなさい!」
栞が腕を掴んだ。悠安に本気で怒ったところを見たのはこれが初めてだった。
「謝りなさい」
「嫌だ!こいつがいなければ、パパは悲しまなかった!全部こいつが悪いんだ!」
悠愛は納得できないとばかりに俺を睨みつけている。今にも飛びかかってきそうだった。
かつて自分の手で育てた子ども。俺に驚くほどよく似たその顔を見ても、不思議なくらい、何の感情も湧かなかった。ただ、少し滑稽に思えただけだ。
栞は険しい顔で悠愛を俺の前まで引っ張ってくると、無理やり俺をパパと呼ばせようとした。
悠愛は小さな拳をぎゅっと握り、全身で拒絶する。
「違う!こいつは僕のパパじゃない!僕のパパのほうが背も高いし、かっこいい!こんな不細工じゃないもん!こいつなんか死んじゃえばいい!そしたら今のパパだって喜ぶ!」
「悠愛!」
栞は悠愛の手を掴んだまま、震えていた。俺は静かに彼女を制した。
「子どもなんだから、そこまでしなくていい。呼び方なんて、ただの呼び名だろ」
「いい人ぶらないで!」
悠愛は思い切り俺を突き飛ばすと、キッズ携帯に向かって泣きながら訴え始めた。
栞はスカートの裾を握りしめ、複雑な表情で振り返る。
「圭吾、悠愛は……」
疲れたように手首を揉んだ。
「もういい。仕事、何時に終わるの?待ってるから」
「いいよ」
俺は意識して距離を取り、腰をかがめて散らかったものを片づけ始めた。
「旦那さんが家で待ってるだろ」
「おや、篠宮社長じゃないですか」
奥から店長が出てきた。
俺を邪魔者でも見るように一瞥すると、嫌そうに足で小突き、すぐさま愛想笑いを浮かべる。
「新作がたくさん入ったんですよ。今日もご主人のお洋服をお探しですか?前回ご注文いただいたスーツも仕上がっております。よろしければ……
いやあ、人手不足でしてね。仕方なく、こんな使えない店員まで雇ってるんですよ。お気に召さないようでしたら、すぐクビにしますから」
栞は何も言わなかった。ただ、まっすぐ俺を見つめていた。
もしかすると、俺が何か言い返すのを待っていたのかもしれないが、残念ながら、その期待に応えるつもりはなかった。
俺は黙ったまま、自分の仕事を続けた。しばらくして、栞の目が赤くなった。
「必要ありません。この人はちゃんと働いています」
店長は声を上げて笑った。
「いやあ、篠宮社長は本当にお優しい。この男、手癖まで悪いんですよ。私だって本当なら雇いたくないくらいでして。
この前なんて、ご主人も言ってましたよ。大勢の前で高級腕時計を盗んだって。金に困りすぎて頭がおかしくなったんでしょうな」
そう言って、また俺を見下すように睨む。まるで恩を着せるような口調で続けた。
「まあ、篠宮社長がおっしゃるなら、引き続き働かせてやるよ」
俺は淡々と頷いた。何も感じなかった。
その瞬間、栞が突然、俺のつま先を踏みつけた。息を呑むほど綺麗な顔で、俺を睨みつける。
「圭吾、何か言い返しなよ」
俺が黙ったままでいると、焦ったように繰り返した。
「言い返しなよってば。昔のあなたは、あんなに自信に満ちてたじゃない。その気概はどこにいったの?違うって言って。盗んでないって、ちゃんと言いなよ」
俺は口元をわずかに歪め、彼女を押しのけた。
「店長の言うとおりだ。俺が盗んだ」
店長はそこでようやく、何かがおかしいと気づいたらしい。
「篠宮社長……もしかして、お知り合いで?」
「私は……」
「知りません」
栞の言葉を遮り、俺は顔を上げた。まっすぐ彼女の目を見つめる。
「篠宮社長とは、赤の他人です」
この身体になったのは、栞のせいだけどな。
第2章
見慣れたその顔。
俺は、臆病で気弱だった栞が、一人で何でもこなせるようになるまでをずっと見てきた。
栞は幼い頃からよく俺の家に遊びに来ていた。あの頃の栞は痩せて小さく、口数も少なかった。
俺の母は「圭吾の面倒を見てあげて」と栞に言っていたけれど、今思えば、むしろ俺が彼女の面倒を見ていた気がする。
俺はいつもわざと栞をからかった。あちこち遊びに連れ回しては、恥ずかしそうに頬を赤くする姿を見るのが好きだった。
栞をかわいいと褒めるたび、彼女は足をばたつかせて否定した。
そして、しどろもどろになりながら付け足す。
「圭吾も……かっこいいよ、すごく」
一晩中眠らず、ほかの女の子たちを真似して、小さな星を折って瓶いっぱいに詰めてくれたこともある。
そして恥ずかしそうに、ほかの誰かを好きにならないで、と言った。
栞はいつも俺の後ろに立って、小さな声で繰り返していた。
「圭吾……私の圭吾」
まるで俺の小さな子分だった。俺以外の言うことなんて、ほとんど聞かなかった。
十六歳のとき、俺は橘家に恨みを持つ連中に拉致された。閉じ込められた廃倉庫が、轟音とともに崩れ落ちた。
もう助からないと、周囲の誰もがそう言っていた。それでも栞だけは諦めなかった。
血まみれの脚を引きずりながら、素手で瓦礫を掘り返し、俺を助け出してくれた。
俺の胸に倒れ込み、息もできないほど泣きじゃくっていた。
その後、栞は一か月姿を消した。正確には、一か月もの間、集中治療室にいた。
片脚を失ってもおかしくないほどの重傷だった。
目を覚ました日、俺は栞を抱きしめながら目を赤くした。なのに彼女は笑っていた。
「泣かないで。目が腫れたら、せっかくのかっこいい顔が台無しだよ」
俺のほうから、彼女にキスをした。その日の夜、栞は俺の服を掴んで言った。
「責任、取ってね」
そうして俺たちは、周りの声も聞かずに付き合い始めた。母は何度も反対した。
それでも栞は、何を言われても別れないと言い張った。
その一途さから、いつしか周囲では「純愛の化身」とまで呼ばれるようになった。
それから十年以上、俺たちの恋愛はちょっとした伝説のように語られていた。
やがて母が病に倒れ、入院した。命さえ危うい状態だった。
栞はほとんど眠ることなく、献身的に母の世話をした。
そして目を真っ赤にしながら、病床の前に膝をついた。
「おばさま、私は本当に圭吾が好きなんです。どうか私たちを認めてください。これから先、一生大切にします。必ず圭吾を幸せにします。だから、安心してください」
息を引き取る直前、母は栞の頭をそっと撫でた。栞の手を握り、途切れ途切れに言った。
「栞ちゃん、私には、この子しかいないの。お願い、この子を傷つけないで、この子にはもう、ほかに家族がいないから……」
栞は自分の命にかけて誓った。一生俺だけだと。生涯、俺一人だけを愛する、と。
俺はそんな栞を支えたくて、自分から会社の経営を任せた。当時の彼女は、本当によくやっていた。
会社を引き継いでからは休む暇もなく働き、新しい取引先を開拓し、投資家のもとを走り回った。
そして短期間で、橘グループを大きく成長させた。
その年の暮れに栞はウェディングドレスを着て、俺にプロポーズした。
俺たちは盛大な結婚式を挙げた。式の途中、振り返った栞は目を真っ赤にして、そのまま俺の胸に飛び込んできた。
「私を家族にしてくれて、ありがとう。これから一生、何があっても離れないから」
そうして俺たちは、幸せな家庭を築いた。栞は俺に苦労をさせたくないと言って、家のことを手伝う人間まで雇った。
それが、和泉航(いずみ わたる)だった。
地方から出てきた男で、体格がよく、日に焼けた肌をしていた。
学はなかったが、とにかく働き者で、頼まれれば何でもやった。
栞はかなりの金を積んで、わざわざ彼を雇ったらしい。
俺は、そんなに金をかけるなんて馬鹿だな、と笑った。
すると栞は背伸びをして、俺にキスをした。
「圭吾の負担が少しでも減るなら、いくらだって惜しくないよ。私を捨てないでね」
航は働き者ではあったが、善意がいつも裏目に出た。
片づけをしようとして、俺の昔の思い出の品を捨ててしまう。
酒棚を整理すれば、決まって高価な酒を割る。
栞のパソコンを閉じようとして、重要なファイルを誤って消したことまであった。
栞は何度も腹を立て、クビにしようとしたが、行く当てもない彼を気の毒に思った俺が止めた。
そのたび栞は、自分のことにはそんなに気を遣ってくれないのに、とぶつぶつ文句を言っていた。
それでも俺の顔を立て、航には優しく接していた。
まさかその結果、航はこの家に残ることに成功し、そのまま俺の居場所を奪っていくなんて。
そして最後には、俺のほうが、この家の部外者になった。
第3章
航はこの家に残ることになってからも、ずっと不安そうにしていた。
その目の奥には、いつも怯えが滲んでいた。ここはもうお前の家でもあるんだから、と俺は笑って安心させた。
航は感激したように俺の手を握った。
「ありがとうございます、兄貴!実の親より、ずっとよくしてもらってます、俺、絶対に頑張ります。いつか必ず恩返ししますから」
俺は笑って、軽く拳で肩を小突いた。
それから会社の仕事を教え、服装も整えてやり、上流の人間たちの輪にも馴染めるよう手を貸した。
何か問題が起きれば、俺が前に出て解決したこともある。
一人でも人手が増えれば、栞の負担が少しは軽くなる。
俺は純粋に、航にも幸せになってほしかった。
やがて航は、人前でも堂々と話せるようになり、自信もついていった。
誰かに航を紹介するとき、俺はいつも、こいつは俺の弟みたいなもんだと言った。
栞の態度も少しずつ変わっていった。買ってくるプレゼントは、いつしか二人分になった。
自分から航に話しかけるようになり、ときには甘えた口調を見せることさえあった。
航も栞のそばをうろつきながら笑って会話に加わり、少し寂しそうに言った。
「俺、栞さんみたいな人に憧れてるんです。羨ましいなって思います」
すると栞は迷うことなく、航を会社へ連れていった。仕事を一から、手取り足取り教え始めた。
普段は何より効率を重視する栞が、驚くほど根気よく付き合っていた。
あまりにも熱心なので、俺が思わず釘を刺したこともあるが、栞は言った。
「向上心があるのはいいことでしょ。せっかくやる気があるのに、邪魔したくないの。どうせ身内みたいなものなんだし、少しくらい面倒を見てもいいじゃない。そのうち私も楽になって、圭吾と過ごす時間を増やせるし。
安心して。仕事は仕事だから。私が好きなのは、圭吾だけだよ」
それから栞と航が二人が会社で過ごす時間は、どんどん長くなっていった。
栞は昔から働き詰めだった。
だから俺は航に、栞のことをちゃんと支えてやってくれと頼み、二人分の食事まで俺が用意するようになった。
航は言った。
「栞さんは、兄貴みたいな旦那さんがいて幸せですね」
栞は俺に抱きつきながら笑った。
「もう一生仕事なんてしたくない。ずっと圭吾にくっついてたい」
なのに、ネット上に、二人の動画が流出した。
会社のオフィスの窓際で。栞が、航に押し倒されていた。
俺は会社まで全速力で走った。
オフィスへ飛び込んだとき、手にはまだ料理に使っていたフライ返しを握っていた。
頭に血が上った俺は、栞の顎を掴んだ。
「栞!俺にこんなことして、何とも思わないのか!どうして俺を裏切った!」
怒りでこめかみに青筋が浮かび、まともに喋ることすらできなかった。
それなのに栞は、まだ航の方へ寄ろうとしていた。俺のほうなど一瞥すらしない。
「何その顔。嫉妬に狂ったみたい、昔の圭吾は、こんなんじゃなかった。
航だって恥ずかしい思いをしてるの。そんなに騒いだら、これから会社でどうやって働けっていうの?圭吾は恥をかいても平気かもしれないけど、航には立場があるの」
昨日まで心の中で大切にしていた人間も、一度冷めれば、ただ鬱陶しいだけの存在になる。
俺は栞を壁に押しつけた。
「よくそんなことが言えるな?お前らの写真も動画も、とっくにネット中に出回ってるんだぞ!」
栞は面倒そうに舌打ちすると、俺を乱暴に振り払った。
その勢いで、デスクの上のポットが倒れ、熱湯が派手に飛び散って俺の足にかかった。焼けるような痛みで、周囲の音が遠のく。
「日本語が分からないの?航の潔白を証明しようともせず、ここまで来て騒ぎ立てるなんて。あなたって、航をいじめる以外に何ができるの?」
航はため息をつき、栞を抱き寄せて宥めた。
「大丈夫です……兄貴に嫌われても、俺は平気です。栞さんの心に、少しでも俺の居場所があれば、それでいいんです。
それと兄貴……俺を殴って気が済むなら、好きなだけ殴ってください。絶対にやり返しませんから」
俺は震える拳を固く握りしめた。
だが結局、栞は社員たちに命じ、俺を堂々と会社から追い出した。
俺は黙っていられなかった。二人が恩知らずだということを、世間中に知らしめようとした。
大金を使ってネット上に情報を拡散させ、二人の醜聞を徹底的に暴いた。
けれど、一日も経たないうちに記事も動画もすべて削除された。
騒ぎは嘘のように静まり返った。二人を非難する声は、きれいに消えていた。
そして栞は記者会見を開き、平然と言った。
「夫は精神的に不安定なところがあり、以前から航に対して強い敵意を抱いていました。陰で何度も、酷い言葉を浴びせていたことも確認しています。ですが、橘家には恩があります。だからといって、私は夫を見捨てるつもりはありません」
会社は、いつの間にか篠宮のものになっていた。
栞は証拠まで捏造し、俺が故意に航を陥れたのだと言い張った。
しかも俺のアカウントを勝手に使い、航への謝罪文まで投稿した。
航は寛大な顔で、気にしていません。やましいことがなければ、いつか真実は分かってもらえますから、と言った。
だが家に帰ると、栞はハイヒールで俺の腹を踏みつけた。そしてハンマーで、俺の指を叩き折った。
航に手を出したら許さないと警告し、俺の頭を押さえつけて、航の前に跪かせた。
航の名誉を傷つけたのは自分だと認めさせ、無理やり謝罪させた。
さらには、俺を精神科病院へ入れる手配まで済ませていた。
だがその矢先、栞の妊娠が分かった。腹の子は、俺の子だった。
俺は必死に頼んだ。産んでほしい。もう騒がない。何も言わないから。だから、この子だけは残してくれ、と。
薄暗い部屋の中、栞は長い間、何も言わなかった。
やがて、折れたように俺をそっと抱きしめた。
「圭吾、もうやめよう。これからは、ちゃんと一緒に暮らしていこう」
第4章
栞は航を家から追い出した。俺はそれから、細心の注意を払って家事や栞の世話をした。
栞もまた、以前のように俺に甘えるようになった。そうして数か月だけは、どうにか穏やかな日々を過ごせた。
俺はてっきり、栞がようやく目を覚ましてくれたのだと思っていた。
けれど妊娠八か月を迎えた頃、栞は夜になっても帰ってこなくなった。
帰宅した彼女の身体には、あの嗅ぎ慣れたメンズ香水の匂いが染みついていた。
俺は栞の手首を掴み、声を荒らげた。
「栞、お腹の子のことを考えたことはあるのか?」
だが栞は意にも介さず、背を向けた。その表情は、波ひとつ立たない水面のように冷え切っていた。
それどころか、人をつけて俺を四六時中見張らせるようになった。
ネットでは、栞と航の噂が連日話題になり続けた。
そして、子どもが生まれた場所さえ、病院ではなくホテルだった。
その部屋には、栞と航が一緒に過ごした痕跡がまだ残っていた。
栞は予定より早く生まれたばかりの子を、俺に押しつけた。
俺は感覚が麻痺したような状態で、その小さな身体を抱きしめた。
そして、橘悠愛(たちばな ゆあ)と名づけた。
ただ、平穏に、無事に育ってほしい。悠愛は、俺の残りの人生を生きる希望だった。
俺は必死に育てた。三歳になるまで、できることはすべてやった。
なのに、航がたったひと言、父親になってみたい、と言っただけで、栞は悠愛を俺から奪った。
栞は航と悠愛を連れて旅行へ行った。三人で写真を撮り、楽しそうに笑っていた。まるで、あの三人こそが本当の家族であるかのように。
俺はどうしても悠愛に会いたくなって、幼稚園まで迎えに行ったが先生に、知らない人には渡せない、と言われた。胸を刃物で抉られたようだった。
「俺はこの子の父親です。迎えに来たんです」
「違う。この人、僕のパパじゃない」
悠愛は先生の後ろに隠れ、警戒するように俺を見つめた。息が詰まった。
「悠愛、パパだよ。覚えてないのか?」
「こんなパパ、僕にはいない!悪い人だもん!不細工だし、いちいちうるさいし。だからママに捨てられたんでしょ!僕は航パパに迎えに来てほしい!航パパが僕のパパなの!」
怒りと悲しみで、悠愛を掴んだ手が震えた。
「どうしてそんなことを言うんだ!お前は橘悠愛だろ!」
「本人が嫌がってるのに、兄貴は何を無理強いしてるんですか?」
「パパ!」
悠愛は一目散に航のもとへ駆け寄った。俺に向けていた態度とは、まるで別人だった。
航は悠愛の手を握り、勝ち誇った顔で笑った。
「兄貴、栞さんも悠愛も毎日、俺に一緒にいてほしいって言うんですよ。悠愛なんて、ママに妹を作ってってせがんでるくらいで。
でも俺がいらないって言ったから、栞さん、また一人堕ろしたんです。そのせいか、ここ数日は俺にべったりで。俺が兄貴だったら、とっくにひっそり死んでますけどね」
「お前……!」
栞は、航のためならそこまでできるのか。俺があれだけ、この男によくしてやったのに。
俺は航の胸ぐらを掴み、思い切り拳を叩き込んだ。だが次の瞬間。
俺の身体は蹴り飛ばされ、地面に転がった。
「いい加減にしなさいよ。航にまで手を出すなんて。今のあなたに、父親を名乗る資格があると思ってるの?」
車のタイヤが、俺の手のひらを踏みつけていった。
それでも俺は折れた。プライドなんて全部捨てて、栞に縋った。震える腕で、彼女を抱きしめる。
「栞……悠愛が……俺をパパだって認めてくれないんだ。頼む……お願いだ。悠愛を返してくれないか?
俺があの子を連れて出ていくから……返してくれ。俺にはもう、悠愛しかいないんだ……」
栞の目が、一瞬だけ揺れたが、次の瞬間には、迷いなく俺を突き放した。その声は、どこまでも冷たかった。
「子どもに嫌われたなら、自分に原因がないか考えたら?泣いて、喚いて、そのくせ何の努力もしない。そんな暇があるなら、少しは航を見習えばいいのに。それに、子供が言ったことでしょ。そんなことにこだわるなんて器が小さい」
俺は悠愛を奪い返すように抱き寄せ、怒鳴った。
「でも、こいつは俺の子だ!俺の血を引いた、俺の子なんだ!」
誰も俺の言葉を聞かなかった。悠愛は俺の手に思い切り噛みつき、さらに急所を力いっぱい蹴った。
「いらないって言ってるでしょ!ママだってパパなんかいらないんだよ!航パパと僕とママが、本当の家族なんだから!」
三人は、そのまま振り返りもせず去っていった。その場に残されたのは、俺一人。
周囲からは、冷たい視線が突き刺さった。親たちは、自分の子どもを俺から遠ざけた。
「あの人、頭がおかしいんじゃない?」
「誘拐犯じゃないの?」
いつからだったのか。気づけば服も顔も、誰かに吐きかけられた唾で汚れていた。
そして翌日。栞は悠愛を連れて、姓を変える手続きをした。
橘悠愛ではなく、篠宮悠愛になった。悠愛自身が、ママと同じ名字になりたいと言ったらしい。
悠愛は航の肩車に乗り、幼い声で楽しそうに叫んでいた。
その親子動画はネットに投稿された。コメント欄には賞賛の言葉が溢れていた。
俺だけが血まみれの身体以外、何ひとつ持っていなかった。
第5章
栞は俺に金を渡してくれなかった。病院に行くことさえできなかった。
家で何日寝込んでいたのかも分からない。そんなある日、悠愛がやってきた。
一瞬、自分の目がおかしくなったのかと思った。悠愛はコップを手に、俺の前に立っていた。
目を伏せたまま、小さな声で言う。
「パ……パパ」
幻聴かと思った。悠愛は俺にコップを差し出した。
「お水、飲んで」
俺は何の疑いもなく信じた。一気に飲み干した。一滴も残さずに。
そして悠愛を抱きしめた。身体が震えた。胸の奥が、どうしようもなく痛かった。
「悠愛……もう一回……呼んでくれないか……」
悠愛の身体は、腕の中で硬直していた。やがて、俺の身体に異変が起き始めた。
そこでようやく気づいた。あの水には、毒が入っていた。
息ができなくなっていく中、悠愛は俺を力いっぱい突き飛ばし、逃げ出した。
「ふん、本当に騙されやすいんだね。パパが、言う通りにして帰ったらお菓子くれるって言ったからやっただけ!じゃなきゃ、パパなんて呼ばないよ!気持ち悪い!」
悠愛は一度も振り返らなかった。俺はその小さな背中を見つめたまま、息をする力さえ失っていた。
「……何で……」
病院では、何度も危篤状態になったらしい。病院側は緊急連絡先へ電話をかけた。電話に出たのは悠愛だった。悠愛は不機嫌そうに、電話口で怒鳴った。
「まだ死んでないの?早く死んでよ!そしたらママとパパが結婚できるのに!ずっと居座って、わざとパパを困らせてるんでしょ!」
電話の向こうでは、航が栞を宥めている声が聞こえた。栞はうんざりしたように鼻で笑った。
「また?今度は何を理由に、私を呼び戻そうとしてるの?また脅してるつもり?切って。電話代がもったいない」
俺はもう、涙すら出なかった。それでも運だけはよかったらしい。
死ななかった。毒では死ななかった。その代わり、胃がんが見つかった。
手も、もう自分のものとは思えないほど変わっていた。
昔の俺は絵を描いていた。でも、この手ではもう何もできない。
それが幸運なのか、不幸なのか。俺には分からなかった。
離婚届を持って、栞のオフィスを訪ねた。彼女の首筋には、まだキスマークが残っていた。
手の中でペンを弄びながら、栞は笑みを崩さない。
「離婚?本当に決めたの?悠愛と離れても平気なの?」
「ああ」
「あとになって、また戻ってきて騒がないでよ」
栞は、俺が自分から離れられるはずがないと信じ切っていた。
「郊外にあるマンションはあなたにあげる。この数年分の埋め合わせってことで」
そう言うと、栞は迷いなく署名した。ペン先は、一度も震えなかった。
ただ、俺が背を向けた瞬間、栞が呼び止めた。
「その手だけは、ちゃんと治してから行きなよ」
俺は立ち止まらなかった。そのまま振り返ることなく、真っ直ぐ歩いていった。
十六歳の俺は、想像もしなかっただろう。俺たちの最後が、こんなにも惨めなものになるなんて。
……
我に返ったときには、もう外は暗くなっていた。身体の奥には、まだ鈍い痛みが残っている。
しばらくその場で休んでから、ようやく立ち上がった。外では風が唸るように吹いていた。
店を片づけて外へ出ると、少し肌寒い。俯いてタクシー配車アプリを開いた、そのときだった。
突然、腕を絡め取られた。暗がりの中で、美しい瞳がかすかに揺れる。
栞は鼻をすすり、昔のような柔らかな声で言った。
「圭吾くん、私……」