プロモーションを読み込み中...
妊娠8ヶ月、警察官の夫に愛人扱いされた
柿本蒼汰(かきもと そうた)がようやく時間を作り、妊娠8ヶ月の私、柿本笙子(かきもと しょうこ)を初めて妊婦健診へ付き添ってくれた。 けれど、病院に足を踏み入れた途端、蒼汰の仕事用スマホがけたたましく鳴り響いた。 表示された発信者名を見た瞬間、普段は冷静な蒼汰の表情が、みるみるうちに強張った。 「笙子、急な呼び出しだ。国際指名手配犯がまた入国したらしい。俺は……悪い……」 焦りを隠せないまま、有無を言わせぬ命令のような口調で詫びると、蒼汰は足早に立ち去っていった。 その背中を乗せたオフロード車が勢いよく走り去るのを見つめながら、私は受診票を握りしめた。気づくと、紙は爪でぐしゃぐしゃになっていた。 大きなお腹を抱えたままタクシーを止めると、すぐに運転手に話しかけた。 「前の車を追ってください」 ――国際指名手配犯だって?そんな嘘、よく思いついたものだ。 父がいる警視庁にさえ何の連絡も来ていないのに、ただの地方署の署長である蒼汰が、何をそんなに慌てる必要があるというのか。 いったい、どこの「お偉いさん」が、そんなに急いで彼を呼びつけたのか、この目で確かめてやる。
チャプター (1)
第1章
柿本蒼汰(かきもと そうた)がようやく時間を作り、妊娠8ヶ月の私、柿本笙子(かきもと しょうこ)を初めて妊婦健診へ付き添ってくれた。
けれど、病院に足を踏み入れた途端、蒼汰の仕事用スマホがけたたましく鳴り響いた。
表示された発信者名を見た瞬間、普段は冷静な蒼汰の表情が、みるみるうちに強張った。
「笙子、急な呼び出しだ。国際指名手配犯がまた入国したらしい。俺は……悪い……」
焦りを隠せないまま、有無を言わせぬ命令のような口調で詫びると、蒼汰は足早に立ち去っていった。
その背中を乗せたオフロード車が勢いよく走り去るのを見つめながら、私は受診票を握りしめた。気づくと、紙は爪でぐしゃぐしゃになっていた。
大きなお腹を抱えたままタクシーを止めると、すぐに運転手に話しかけた。
「前の車を追ってください」
――国際指名手配犯だって?そんな嘘、よく思いついたものだ。
父がいる警視庁にさえ何の連絡も来ていないのに、ただの地方署の署長である蒼汰が、何をそんなに慌てる必要があるというのか。
いったい、どこの「お偉いさん」が、そんなに急いで彼を呼びつけたのか、この目で確かめてやる。
第1話
「夫が不倫をしているかもしれないんです」
私がそう言っただけで、事情を察したらしい運転手はアクセルを踏み込み、すぐに蒼汰の車へ追いついた。
蒼汰が誰に会いに行くのかは分からないが、胸騒ぎだけは、どうしても消えなかった。
やがて何度も角を曲がった末、車は彼がよく行きつけている料亭の前で止まった。
私は思わずほっと息をついた。
――ホテルじゃなくてよかった。
この料亭の隣には蒼汰が所属する警察署の職員宿舎があり、署の行事などでよく貸し切りにして利用されている。
蒼汰にも部屋が割り当てられている宿舎で、第一子を授かる前、私は数か月暮らしたことがある。あの頃、彼の同僚たちは皆、とても親切にしてくれたものだ。
今、料亭の前には高級車がずらりと並び、中からは賑やかな音が聞こえてくる。
――何か特別な日だったのだろうか。
そう思って中へ入ろうとした瞬間、料亭のスタッフに呼び止められた。
「申し訳ございませんが、本日は貸し切りのため、関係者以外の方はご入店いただけません」
私は少し驚きつつ、笑って答えた。
「さっき入ってきた柿本署長の妻です」
ところがスタッフは、露骨に見下すような目で私を見た。
「柿本署長の奥様は希美様です。すでにいらっしゃっております。
名乗るなら、もう少し下調べをしてからにしてください」
その一言で、全身が凍りついた。
塩瀬希美(しおせ のぞみ)、蒼汰が私のために見つけてきた血液提供者。
我に返ると、私は制止を振り切り、大きなお腹を抱えたまま料亭の中へ駆け込んだ。
広い宴会場には、着飾った名士や政財界の人々が集まり、あちこちで笑い声が響いている。
いつもは静かな暮らしを好む義母・柿本里香(かきもと りか)でさえ、今日は珍しく人々の輪を渡り歩き、愛想よく挨拶を交わしている。
そして、夫の蒼汰は子供を抱きながら離乳食を食べさせ、隣にいる小柄な女と幸せそうに笑い合っている。
その女は希美だ。
私は胸を大きな手で握り潰されたように苦しくなり、息ができなくなった。
涙が勝手にこぼれ落ちた。
第一子を妊娠していた頃、私が希少血液型だったせいで、出産を心配した蒼汰は全国を探し回り、血液提供者を見つけてくれた。
それは、当時まだ貧しかった学生の希美だった。
出産が終わったら彼女は別の場所へ移す、と蒼汰は言っていた。
けれど私は気の毒に思い、警察署で事務職として働けるよう手配し、サプリメントも蒼汰に託して届けてもらっていた。
まさか、その相手と不倫しているなんて。しかも、恐らく隣の宿舎の部屋で囲っているのだろう。
その宿舎は家族が住めるから、蒼汰は私と長くそこで暮らせるように、インテリアや家具まで丹念に整えてくれたのだ。
けれど、いつも通っている病院から遠かったため、私が妊娠すると蒼汰は心配し、病院の近くへ新しく家を買って引っ越した。
その結果、まさか宿舎の部屋は彼らが「夫婦」として暮らしている家になっていた。
子供まで生まれていた。
「柿本署長、おめでとうございます。奥さんは気立てがよく、今回はお子さんも誕生し、本当に順風満帆です」
副署長の妻・高橋綾(たかはし あや)は里香の手を取り、お世辞を並べた。
「やっぱり希美さんは幸せですね。署長のように奥さんを大切にする人と結婚できるなんて、うらやましいです」
里香は希美を見つめ、満足そうに目を細めた。
「希美ちゃんのような嫁を迎えられた蒼汰こそ、本当に幸せ者ですよ」
その言葉に続くように、蒼汰は人目も気にせず希美へ身を寄せ、耳元で何か囁いた。
希美は恥ずかしそうにはにかむと、グラスを掲げた。
「署内で蒼汰の立場に響くといけないと思って、これまで結婚を公表しなかったんです。皆さん、ごめんなさい。
今日はこの子の1歳の誕生日です。どうぞたくさん召し上がってください。披露宴の代わりだと思っていただけると嬉しいです」
場の空気はさらに和み、あちこちから祝福の声が飛び交っている。
「何をおっしゃっているのですか、奥様。こちらこそ、結婚のお祝いが遅くなり申し訳ございません」
「せっかくですから、署長と奥様のラブラブな姿を見せてください!たとえば、キスとか!」
蒼汰の部下たちが一斉にはやし立て、食事会は一気に盛り上がった。
希美は照れて遠慮する素振りを見せたが、蒼汰はその腰を抱き寄せ、腕を絡ませた。
キスしようとしたその瞬間。
蒼汰の目が、宴会場の入り口に立つ私を捉えた。
彼の顔から血の気が失せ、慌てて腕の中の希美を突き飛ばした。
「……笙子」
希美はバランスを崩し、テーブルにぶつかった。
私は涙を乱暴にぬぐい、大きなお腹を抱えたまま歩み寄った。
そして、渾身の力を込めて蒼汰の頬を打った。
パァン!
乾いた音が会場中に響き渡り、場は水を打ったように静まり返っている。
「蒼汰!」
希美が悲鳴を上げながら蒼汰をかばうと、次の瞬間、私に食ってかかった。
「あんた!よくも……」
パァン!
もう一発。
希美の頬はたちまち赤く腫れ上がり、よろめきながら蒼汰の胸へ倒れ込み、すすり泣いた。
私は痺れた手を軽く振った。
「笙子!お前……」
「柿本蒼汰!」
蒼汰の怒鳴る声を、私はさらに大きな声でかき消し、冷え切った目で彼を睨みつけた。
「これが、蒼汰の言う『国際指名手配犯』なの?」
第2話
蒼汰は言葉を失った。
口を開けても閉じるばかりで、一言も返せない。
居合わせた偉い人たちも、その家族も、何が起きたのか分からず呆然としている。
凍りついた空気を破ったのは、子供の泣き声だ。
その声に皆がはっとすると、里香は慌てて子供を抱き上げ、あやしながら私を叱りつけた。
「この気狂い!もう離婚したくせに、まだうちの息子に付きまとう気?空気を読みなさい!お偉い方に無礼を働いたら、本当に刑務所送りになるわよ!」
綾もすぐに声を荒げた。
「元妻だからといって、人を叩いていい理由にはならない!警察官への暴行よ!」
「離婚」や「元妻」という言葉が聞こえた途端、会場は大騒ぎになり、あちこちから「刑務所へ入れろ」という怒号が飛び交った。
私は眉をひそめ、蒼汰の襟を掴んだ。
れっきとした妻なのに、どうして元妻になっているのか問いただそうとした、そのとき。
希美は先に蒼汰の胸へ身を寄せ、涙を浮かべながら私を見つめた。
「笙子さん……蒼汰とはもう離婚したでしょう。どうしてまだ私たちに付きまとうんですか……」
涙をぽろぽろと流しながら続けた。
「全部私が悪いんです。蒼汰を返しますから、それでいいでしょう……」
その言葉に、蒼汰の顔色が変わり、怒りを押し殺した声で私を叱りつけた。
「笙子!復縁はしないって何度も言ったはずだ!もう俺たちに付きまとうな!
まだ我慢してるうちに出ていけ!これ以上相手をする気はない!」
そう言って手を振ると、数人の警察官が私のもとへ向かってきた。
もみ合ううちに、私はよろけて里香へぶつかった。
その瞬間、彼女の腕に抱かれた子供の顔が目に映った。
私は雷に打たれたように立ち尽くした。
希美の息子だと言われていたその子供は、7時間もの陣痛に耐えて私が産んだ第一子、柿本昭(かきもと あきら)だ。
しかし、昭は数ヶ月前に亡くなったはず。
しかも、蒼汰が自ら火葬に立ち会ったと聞かされていた。
――蒼汰、まさか。
息が詰まり、胸の奥から激しい痛みが込み上げてきた。
子供の死まで偽装して、希美に育てさせていたなんて。
「その子を返して!その子は私の昭よ!」
歯を食いしばり、私は子供を里香の腕から奪い返した。彼女を押しのけ、泣きじゃくる我が子を抱きしめると、涙が止まらなかった。
すると希美が青ざめた顔で駆け寄り、子供を奪い取ろうとした。
声を震わせて叫んだ。
「この子は笙子さんの子じゃありません!
昭くんが亡くなってから、おかしくなってしまったのは知っています。でも、離婚した後も蒼汰に付きまとって、また子供を産もうとするなんて……
気の毒に思ってずっと我慢してきました。でも、どうか私の子供まで奪わないでください!
お願いです……私たち家族を放っておいてください。私が蒼汰と離婚しますから……子供だけは返してください!」
その言葉に蒼汰の顔が苦悶の色を浮かべ、希美の肩を強く掴んだ。
「希美、それは駄目だ!
離婚なんて考えるな。誰にも、俺たちの家族を壊すことなんてさせない!」
「じゃあ、私は?」
私は怒鳴って、蒼汰の言葉を遮った。
互いを想い合うように見つめ合う二人の前で、重たいお腹を指差し、一語一語を突きつけた。
「私のお腹には、蒼汰の子供がいるのよ。それなのに目の前で不倫して、私を勝手に元妻扱いするなんて……よくそんな真似ができるわね!」
蒼汰は下唇を噛み、私から目を逸らした。
一方、希美はさらに激しく涙を流し、まるで自分こそ被害者だと言わんばかりに来客たちへ訴え始めた。
「皆さん、ごめんなさい。笙子さんは蒼汰の元奥さんなんです。事故で子供を亡くしてから、心を病んでしまって……
それがきっかけで、街のチンピラと関係を持ってしまい、子供を授かったと聞きました。
蒼汰は昔の情があって面倒を見ていただけなのに、その子を蒼汰の子だと言い張って、私たちに離婚まで迫ってきたんです」
その話を聞いた瞬間、会場の空気は一変した。
客たちは嫌悪を隠そうともせず、叫び始めた。
「頭のおかしい女に尻軽まで加わってるじゃない!誰か早く、この女を叩き出して!」
私は腕の中の子供を優しくあやしながら、そっと鼻で笑った。
そして希美を氷のような冷たい目で見据えた。
「泥棒猫のくせに清純ぶるのもいい加減にしたら?塩瀬、自分が何をしてきたか忘れたとは言わせないわ。
自分の血液、1ミリリットルいくらで売ってたか、言ってあげようか?
私から6億円受け取って、そのうえ安定した仕事がほしいって、私の前で土下座したのは誰だった?」
私の言葉を聞くと、希美の顔からみるみる血の気が失われていく。
それでも私はやめなかった。
「蒼汰に囲われるだけじゃ物足りなくなったの?今度は私の居場所まで奪うつもり?
愛人のくせに、よくも図々しく正妻ぶれるわね。恥ずかしくないの?」
言い終えるよりも早く、大きなお腹に突然、強い衝撃が走った。
第3話
「蒼汰の家庭を壊した泥棒猫は、あんたのほうよ!」
里香の甲高い怒鳴り声が響き渡った。
次の瞬間、私は背中から勢いよく壁へ叩きつけられ、お腹の奥がねじ切れるように痛んだ。
腕の中の子供も里香に奪われ、そのまま希美へ渡された。
すると、蒼汰の部下たちまで憤ったように口々に叫び始めた。
「そうだ!署じゃ誰だって、署長と希美さんが付き合ってるって知ってる!
希美さんが情報をくれたから、あれだけ大きな事件を解決できたんだろ!署長への昇進だって、あんなに早かったじゃないか!
役立たずの元妻のお前は、署長の足を引っ張ることしかできなかった!恥を知れ!」
――情報提供?事件解決?昇進?
それはすべて、私が蒼汰のためにしてきたことじゃない。
私の居場所を奪っただけでは飽き足らず、彼は私の手柄まで、全部希美のものにした。
同僚の前で、彼女を良き妻に見せかけるために。
そんなの、ありえなさすぎる。
「もしお前のせいで署長に不倫の疑惑がかかれば、免職になるかもしれないぞ!彼の警察官としてのキャリアを潰す気か?」
「ふしだらな女め。署長の妻を名乗るなんて目障りだぞ!署長がお人好しだから生かされてるだけで、俺だったらとっくに……」
耳を塞ぎたくなるような罵声が、四方八方から浴びせられる。
その冷たい空気の中で、私は青ざめた顔のまま、一歩引いて傍観している男を見つめた。
「……蒼汰」
掠れた声で呼んだ。
「言って。どうやって署長になったのか」
蒼汰の指先がぴくりと震えた。
そして顔を背け、冷たい目を私へ向けた。その瞳には、これまで見たこともない憎しみが宿っている。
私は思わず笑ってしまった。
「危険な現場は嫌だ、命を懸けたくない、オフィスで穏やかに働きたいって言ったのは蒼汰でしょ。それを叶えるためのコネをつけたのは、この私よ。
婚約した後には、階級が低すぎて私に釣り合わないって言ったから……父にも頭を下げた。
事件が難しくて手詰まりになるたび、私は寝る間も惜しんで情報を集めてた。なのに今になって、蒼汰は……」
「もういい!」
彼が怒鳴り声を上げた。
大股で歩み寄ると、私の首を乱暴に掴み上げた。目は真っ赤に充血し、狂気じみた形相で怒鳴った。
「デタラメを言うな!今の俺があるのは、すべて自分の力で勝ち取ったんだ!お前みたいな役立たずが何をしたって言うんだ!」
首に激痛が走った。息が詰まり、目の前が暗く染まっていく。顔は真っ赤に熱を帯び、腫れ上がった。
けれど、私があまりにも言い切ったせいか、蒼汰が異様なほど取り乱した姿を見て、その場にいる偉い人たちやその家族は顔を見合わせ、小声で話し始めた。
周囲の様子をうかがった希美の瞳が、不気味に光った。子供を抱いたまま、突然私の前へ膝をついた。
「……普段なら、笙子さんが何を言っても、病気だからって我慢してきました」
涙を流しながら、悲しげに続けた。
「でも、今日は駄目です。こんな場合にそんなことを言ったら、本当に蒼汰の将来が終わってしまいます。
お願いです、笙子さん……私が頭を下げますから、もうそんなこと言わないでください……」
膝をついてにじり寄り、私のズボンの裾を掴むと、そのまま額を床へ打ちつけようとした。
「希美!」
蒼汰は慌てて私の首から手を離し、しゃがみ込んで希美を支えようとした。
その瞬間、彼女は私の脚を抱えたまま、大げさに体を跳ね上げた。まるで弾き飛ばされたように転がりながら叫んだ。
「きゃあっ!笙子さん、殺す気ですか!」
私は何が起きたのか理解する間もなく、次の瞬間には、蒼汰の平手が思い切り私の頬へ振り下ろされた。
「笙子!いい加減にしろ!」
鈍い衝撃が右頬を焼き、私は思わず打ち返そうとした。
だがその直後、後ろから里香に腰を思い切り蹴り飛ばされた。
不意を突かれた私は壁に激しくぶつかり、そのまま床へ崩れ落ちた。
その瞬間、腹を引き裂かれるような激痛が走った。両脚の間から鮮やかな血がどっと流れ落ちる。
あっという間に床が真っ赤に染まった。
私は血だまりの中に座り込み、全身がばらばらになるような痛みに襲われた。
「お腹が……蒼汰……お腹が痛い……」
激痛に耐えながら涙を流し、手を伸ばした。
けれど、頭の上から里香の足が、私の手を思い切り踏みつけてきた。骨が砕けそうなほどの痛みだ。
「泥棒猫!まだ芝居を続けるつもり?そんな脅し、蒼汰には通じないよ!」
涙で視界がぼやける中、唇を震わせながら私は訴えた。
「蒼汰……演技じゃない……お願い……病院へ……」
しかし蒼汰は、一度も私の方を振り返らなかった。
希美を大切に守りながら、冷たく言い放った。
「もうやめろ、笙子。芝居は十分だ。今すぐ希美に謝れ。
子供を言い訳にすれば俺が騙されると思うな」
そう言って振り返った彼の視線が、私の下半身から広がる血へ落ちた。
その瞬間、顔に浮かんでいた嫌悪の色が消え去り、代わりに隠しきれない恐怖が滲み出た。
蒼汰は、私の本当の身分を知っている。だから、見捨てることなど本当はできない。
私は必死に彼の動揺した瞳を見据え、お腹が千切れそうな痛みに耐えながら歯を食いしばった。
「もし、お腹の子に何かあったら……蒼汰が……この子の父親である蒼汰が……殺したのよ!
父も……兄も……絶対に柿本家を許さない!
早く……病院へ連れて行って!」
第4話
喉の奥から絞り出すように叫んだ。
その迫力に、会場にいる偉い人たちの疑いはさらに深まっていく。
「まさか……この女が本当の妻なのか?」
「じゃあ、愛人は希美のほう?だから結婚を公表してこなかったのか……」
「柿本署長、あの女のお腹を見る目……妙に動揺してるぞ。あの子、本当に彼の子なんじゃ……」
ざわめきが大きくなるにつれて、蒼汰の顔色はますます悪くなる。
けれど、私にはもう彼らと争う余裕などない。ただ一刻も早く、この場を離れたい。お腹の中の鼓動がどんどん弱くなっていくから。
「蒼汰!昭を返して。そして、今すぐ病院へ連れて行って。子供さえ無事なら……今日のことはすべて水に流す。
離婚だけで済む……」
言い終える前だ。
ガシャーン!里香が投げつけたグラスが私の額に直撃し、砕けたガラスが頬を切り裂いた。
「黙れ!」
里香は怒鳴った。
「気狂いの言葉なんか誰が信じるもんか!
はっきり言うよ!うちの嫁は希美ちゃんだけ!
法律でも認められた正式な嫁なんだから!」
そう言うと、希美のカバンを開け、婚姻届受理証明書を取り出した。
会場中に見せつけた後、鼻で笑いながら私の顔へ投げつけた。
周囲では再び罵声が飛び交い、誰もが私を狂人呼ばわりする。
私は震える手でその証明書を拾い上げた。
そこには蒼汰と希美の名前がはっきりと記されていた。
そして鮮やかな押印。
頭の中で何かが弾け、私は突然笑い出した。
ようやく理解できた。
この数年、蒼汰が「心配だから」と理由をつけて、私を職員宿舎へ戻らせなかった理由が。
愛人として囲われていたのは、私だったのだ。
希美はずっと前から蒼汰を手に入れていた。何も知らずに幸せだと思っていた私は、ただの愚か者だった。
笑いが止まらない。けれど次の瞬間、体が大きく反り返り、口から黒ずんだ血を吐き出した。
下半身から流れる血も勢いを増していく。
蒼汰は体を震わせ、希美を突き放して私のもとへ駆け寄り、その手を私のお腹に当てようとした。
「笙子……違う……俺は……」
折れた蒼汰を見つめる希美の瞳に、毒のような憎悪が宿っている。彼女は震える指で私の血を指し示した。
「笙子さん……その血の色、おかしくありませんか?まさか血糊を仕込んで、蒼汰に復讐しようとしているんじゃないでしょうね」
涙声はまるで本物のようだ。
「お願いです。そんなことしないでください……お腹の赤ちゃんのことも考えてあげてください」
そう言いながら子供を抱いて私に身を寄せ、私だけに聞こえるほど小さな声で囁いた。
「まだ知らないの?この子は最初から私が産んだ子よ。少しの間、あんたに育てさせてあげただけ。
それと、あんたの子は……ふふっ」
口元を歪めて笑っている。
耳鳴りがした私は、凍りついたように彼女の腕の中の子供を見つめた。
――どういう意味?この子は……希美の子なの?
じゃあ、私の子は?
「私の子供に何をした!」
我に返った私は、狂ったように飛びかかり、希美の首を掴んで引き倒した。
「塩瀬!この泥棒猫!昭をどうしたの?返しなさい!私の子供を返して!」
希美は怯えた声で助けを求めた。
「蒼汰!笙子さんが……私を殺そうとしてる」
けれど、その瞳の奥には計算し尽くした笑みが浮かんでいる。
「笙子!また何をしてるんだ!」
蒼汰の顔色が一変し、怒りに満ちている。希美を引き寄せると、その勢いのまま私の大きなお腹を思い切り蹴り飛ばした。
私は壁際まで吹き飛ばされた。
その瞬間、下半身が裂けるような感覚とともに、大量の血が溢れ出した。膨らんだお腹の奥から、魂まで引き裂かれるような痛みが走った。
全身の神経を一本残らず握り潰され、内臓をこそげ取られているような苦痛だ。
それでも、体の痛みよりも、血で霞む視界の向こう、悪魔のような形相を浮かべた蒼汰の口から放たれた言葉のほうが、何倍も私を傷つけた。
「希美に手を出したな!お前がこうさせたんだ!
おい!みんなの前でこいつの所持品を調べろ!どれだけ血糊を隠してるか確かめろ!」
「蒼汰!」
私は血を吐きながら怒鳴った。
「そんなこと……許されると思ってるの?」
蒼汰は冷たく笑った。
「できるかどうか、試してみろ」
その一言で、部下たちは真っ先に飛び出してきた。
乱暴に私へ手を伸ばし、ポケットをかき回して探した。
「お前が希美さんにたてついた罰だ!自業自得!」
持っているものはすべて地面に投げ捨てられた。
「やめて!」
痛み、恥、そして屈辱。これまで味わったことのない絶望が、私を飲み込んでいく。
掠れた声で叫んだ。
「私は……警視総監の娘よ……あなたたち……」
すると、会場は大爆笑に包まれた。
綾は鼻で笑った。
「本気で言ってるの?武居警視総監に子供は息子さん一人だけって、誰でも知ってる話でしょ?
バカもここまで来ると哀れね。さっさと血糊でも出しなさいよ。誰もあんたに触れたくないわ」
蒼汰の部下たちも笑い声を上げた。
「本当に狂ってる。こんな嘘まで思いつくなんて」
「警視総監の娘だって?だったら、俺は総理大臣だ」
お腹の鼓動は、ほとんど感じられなくなった。
私は必死にもがきながら叫んだ。
「黙れ!本当に私は……」
しかしその瞬間、蒼汰は手で私の口を塞いだ。見下ろす瞳には警告の色しかない。
「違う。警視総監には、お前みたいな気狂いの娘はいない。
まだしゃべれる元気があるなら、子供も平気だろ。
さっさとこいつの所持品を調べろ。血糊を見つけたら留置場へ閉じ込めて、頭を冷やさせろ」
男たちはもう一度近づいてき、乱暴な手つきで私の服のポケットや裾をまさぐった。
薄手の夏服が擦れる音と共に、指先が肌の上を滑る感覚があった。
私は歯を食いしばり、服の端を必死に握りしめた。
けれど、容赦なく手が伸びてきた。
胸の奥が絶望で沈み切った、そのとき。
「やめろ!」
鋭く響く怒声が、会場を震わせた。
「俺の娘にこれ以上指一本でも触れたら、お前たち全員、ただでは済まさない!」